「六根清浄」はなぜ今、必要なのか
情報は溢れ、音は鳴り止まず、感情は揺さぶられ続ける。
現代を生きる私たちは、かつてないほど大量の刺激に晒されています。
SNSをひらけば他人の幸福が目に飛び込み、ニュースは不安を煽り、通知音は思考を断ち切ります。目を閉じても、頭の中では無数の声が鳴り響いている…そんな経験はありませんか。
「祓っても整わない」という悩みを抱える方は少なくありません。
神社で祓いを受けても数日でまた心が乱れ、瞑想をしても雑念が消えない。
浄化の儀式を繰り返しても、根本的な安定が得られないのです。
多くの場合、問題は「穢れ」そのものではなく、穢れを取り込み続ける回路が開いたままになっていることにあります。蛇口を閉めずに水を汲み出し続けているような状態です。
六根清浄とは、その蛇口を調整する技法です。
特別な修行でも、厳しい禁欲でもありません。
自分が世界とどう接触しているかを見直し、感覚を本来の状態に戻していく再調律法なのです。
六根清浄大祓とは?

六根清浄大祓は、神道における祓いの祝詞のひとつであり、修験道や山岳信仰において特に重視されてきた行法です。
修験者たちは山に入る際、「六根清浄、六根清浄」と唱えながら歩きました。
それは単なる呪文ではなく、自らの感覚を整え、神域に入るにふさわしい状態に身を調える行為でした。
この祝詞の特徴は、天照大神の宣言から始まり、人間の本質と六根の関係を深く説いている点にあります。単なる浄化の言葉ではなく、人間存在そのものについての思想が込められているのです。
人が世界と接触する「6つの窓」
六根とは、以下の六つを指します。

- 眼(げん)── 視覚
- 耳(に)── 聴覚
- 鼻(び)── 嗅覚
- 舌(ぜつ)── 味覚
- 身(しん)── 触覚
- 意(い)── 意識・思考
仏教では「煩悩の入り口」として捉えられることが多い六根ですが、神道的解釈では、人が世界と接触し、神と交感するための接点と考えられています。
眼がなければ美しさを感じられず、耳がなければ祝詞の響きを受け取れず、意がなければ神慮を思うこともできません。
六根は、穢れの原因である以前に、世界を受け取る窓です。
問題は、その窓が汚れてしまうこと。
あるいは、開けっぱなしで調整が効かなくなってしまうことなのです。
なぜ六根が『穢れる』のか
現代における六根汚染の具体例を見てみましょう。
眼根の穢れ
スマートフォンを開けば、無限にコンテンツが流れてきます。私たちは一日に何千もの映像を目にし、その多くを意識さえしていません。見るべきでないものを見続けることで、視覚が鈍り、美醜の感覚が狂ってしまうのです。
耳根の穢れ
BGMは途切れず、誰かの声が常に耳に入り、通知音が鳴り続ける。静寂に耐えられず、イヤホンを手放せなくなっている方も多いでしょう。音に晒され続けることで、本当に聞くべき声が聞こえなくなってしまいます。
意根の穢れ
思考は止まらず、不安と後悔が頭の中を駆け巡り、心は常に過去か未来を彷徨っています。思考の暴走によって、今この瞬間に意識を留めることができなくなってしまうのです。
ここで大切なのは、穢れを「罪」や「悪」として捉えないことです。
神道における穢れとは、氣の偏り、滞り、バランスの崩れを意味します。
六根の穢れとは、感覚が過剰に刺激され、あるいは鈍麻し、本来の働きを失ってしまった状態です。
六根清浄大祓の祝詞
ここで、六根清浄大祓の祝詞をご紹介します。
天照皇太神の宣はく
(あまてらすすめおおがみののたまわく)
人は則ち天下の神物なり
(ひとはすなわちあめがしたのみたまものなり)
須らく静謐を掌るべし
(すべからくしづめしづまることをつかさどるべし)
心は則ち神明の本主たり
(こころはすなわちかみとかみとのもとのあるじたり)
心神を傷ましむること莫れ 是の故に
(わがたましいをいたましむることなかれ このゆえに)
目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
(めにもろもろのふじょうをみて こころにもろもろのふじょうをみず)
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
(みみにもろもろのふじょうをききて こころにもろもろのふじょうをきかず)
鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず
(はなにもろもろのふじょうをかぎて こころにもろもろのふじょうをかがず)
口に諸の不浄を言いて 心に諸の不浄を言わず
(くちにもろもろのふじょうをいいて こころにもろもろのふじょうをいわず)
身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず
(みにもろもろのふじょうをふれて こころにもろもろのふじょうをふれず)
意に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想はず
(こころにもろもろのふじょうをおもいて こころにもろもろのふじょうをおもわず)
此の時に清く潔き偈あり
(このときにきよくいさぎよきことあり)
諸の法は影と像の如し 清く潔ければ
(もろもろののりはかげとかたちのごとし きよくきよければ)
仮にも穢るること無し 説を取らば得べからず
(かりにもけがるることなし ことをとらばうべからず)
皆花よりぞ木実とは生る 我が身は則ち
(みなはなよりぞこのみとはなる わがみはすなわち)
六根清浄なり
(ろくこんしょうじょうなり)
六根清浄なるが故に五臓の神君安寧なり
(ろくこんしょうじょうなるがゆえに ごぞうのしんくんあんねいなり)
五臓の神君安寧なるが故に天地の神と同根なり
(ごぞうのしんくんあんねいなるがゆえに てんちのかみとどうこんなり)
天地の神と同根なるが故に万物の霊と同体なり
(てんちのかみとどうこんなるがゆえに ばんぶつのれいとどうたいなり)
万物の霊と同体なるが故に
(ばんぶつのれいとどうたいなるがゆえに)
為す所の願いとして成就せずといふことなし
(なすところのねがいとして じょうじゅせずということなし)
無上霊宝 神道加持
(むじょうれいほう しんとうかぢ)
祝詞の異同について
六根清浄大祓の祝詞には、流派や伝承によって微妙な表現の違いがあります。
中世に吉田兼倶によって確立された吉田神道の影響下で広まりましたが、その後の流派によって表現が書き換えられてきました。
江戸時代の吉川神道では仏教色の強い用語を避け、「此の時に清く潔き偈あり」の「偈(仏教用語)」を「清潔き事あり」などと書き換えました。
宮地神仙道の秘伝的な祝詞では、さらに独自の「加持」の文言が加わることもあります。
特に「須らく静謐を掌るべし」の箇所は、ある本では「須らく掌る、静謐心は」と読み、別の本では「須らく静謐を掌るべし」と読みます。
原本となる漢文体に句読点がなかったため、各流派が自分たちの教義にふさわしい「読み」を定着させていった結果です。
どれかが「間違い」でどれかが「正解」というわけではありません。
これらの差異は、その祝詞がどのような修行体系の中で大切にされてきたかという「血統」を示すものなのです。
祝詞の核心を読み解く
「人は則ち天下の神物なり」
人間を「罪深い存在」「穢れた存在」として捉えていません。
人は本来、神物(みたまもの)、つまり神聖な存在なのです。
「須らく静謐を掌るべし 心は則ち神明の本主たり」
必ず、静謐(静けさ)を司りなさい。
なぜなら心こそが、神明(かみとかみと)の本来の主だから。
心は神の下にあるのではなく、神明そのものの主なのです。
心が騒がしく波立っていては神性は曇ってしまいます。
心が静かに澄んでいてこそ、神明の主としての本来の働きができるのです。
「目に見て、心に見ず」──六根清浄の真髄
祝詞の中核部分では、六根それぞれについて独特の表現が繰り返されます。
「目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず」
目という感覚器官が不浄なものに触れることは避けられません。
現実世界に生きている以上、目は様々なものを見るでしょう。
しかし、心にそれを留めない。
ここに六根清浄の真髄があります。
六根清浄とは、感覚器官を通じて入ってくるものを、心の深い部分に届かせないことです。
らせん状に広がる清浄──個から宇宙へ
六根清浄なるが故に 五臓の神君安寧なり
五臓の神君安寧なるが故に 天地の神と同根なり
天地の神と同根なるが故に 万物の霊と同体なり
万物の霊と同体なるが故に 為す所の願いとして成就せずといふことなし
六根が清浄であれば五臓が安寧となり、五臓が安寧であれば天地の神と同根となり、天地の神と同根であれば万物の霊と同体となり、万物の霊と同体であれば願いは成就する。
この展開は、個人の感覚から宇宙全体との一体化へという壮大な流れを示しています。
六根清浄を『生きる』
日常での実践
眼
SNSで他人の幸福を見ても、それを心の深い部分に届かせない。
比較や嫉妬という感情に発展させず、ただ流していく。
これが「目に見て、心に見ず」の実践です。
耳
誰かの愚痴やニュースの不安な情報を、耳は聞いても心は聞かない。
情報として受け取っても、感情として巻き込まれない距離感を保ちます。
意
湧き上がった思考を、心の主人にしない。
「ああ、今不安が湧いているな」と気づき、それを追いかけず、思考を客観的に眺めて手放していきます。
静謐を掌る
静けさとは、何も感じないことではありません。
すべてを感じながら、波立たないことです。
湖の水面のように、風が吹けば波は立ちますが、やがて静まる。
その静けさを心の中に持つこと、それが静謐を掌るということなのです。
願いの成就との接続
六根が整うと、他人の価値観に振り回されず、情報の雑音に惑わされず、自分が本当に何を望んでいるのかが明確に見えてきます。
願いが明確であれば行動も明確になり、迷いなく一歩一歩進んでいける。
その結果として、願いは成就していきます。
六根清浄を誤解しないために
清浄とは我慢ではありません
「目に見て、心に見ず」は、目に見ることを禁じているのではありません。
見てもいいのです。ただ、心に留めない。
感覚を我慢することではなく、感覚を本来の状態に戻し、適切に働かせることです。
感覚を否定しない
祝詞は人間を「神物」、心を「神明の本主」と呼んでいます。
人間の感覚や心は本来神聖なもの。
問題は感覚そのものではなく、感覚が過剰になったり鈍麻したりバランスを失うことです。
現実逃避ではない
六根清浄は、現実をより正確に感じ取り、適切に対応していくための技法です。
感覚が整うと現実がより鮮明に見え、正しく見ることができるからこそ適切な行動を取れるのです。
六根清浄とは「世界と正しく触れる力」
六根清浄大祓が教えてくれたこと。
人は本来、神物である。罪深くも穢れてもいない、神聖な存在です。
六根清浄とは、その本来の神性を取り戻す道。
静謐を掌ることが、神明の主となること。
騒がしい思考を鎮め、波立つ感情を静め、本来の静謐な心に還る。
そこに神性が宿ります。
魂と現実を同時に整える。
感覚を整えることで心神が清まり、心神が清まることで五臓が安寧となり、五臓が安寧となることで天地の神と同根となり、願いが成就する。
このらせん状の深まりこそが、地に足のついた日本的スピリチュアルの核心です。
六根清浄は遠い昔の修行法ではありません。
今この瞬間も、私たちが実践できる、生きるための智慧なのです。
目に見て、心に見ず。 耳に聞きて、心に聞かず。
その一歩から、六根清浄は始まります。

